文学から生まれる科学(化学編)~小説(詩)と写真の世界より~
暗い夜の街、レンガで覆われた街道の店々から、部屋の光がこぼれていた。
近代科学の発達した いまの世界では、このような人工的な光景が日常だ。
それは、また よい と、思う。
街は、人が集まり、活気づいている。

そのような世界で、ひとは、自然とのつながりを感じ取り、街道で、樹を植える。
それは、ひとのこころを癒してくれるのかもしれない。
それら木々のいのちを受け、生きていけるのかもしれない。

樹木たちは、空気をうみ、やがては大気を形作るに至る。
空には、雲と青空をつくり、その色彩のあざやかさは、ひとのこころを彩る。

樹木たちがうみだした大気と雲は、上空で冷やされて、時として、地上に雨を降らせる。
その雨は、地の生き物たちをはぐくみ、やがてふたたび栄養となって、植物たちを育てる。

やがて来る朝の光、

見上げれば、夜空では、たくさんの星が広がり、生きていて、よかったと思わせてくれる。

自然(と 人を含めて)は、いのちをはぐくむため循環している。その自然といのちの循環が、
いつの時代、
こと、自然、人、様々な、いとなみをつないでくれるんだと、思う。

そとは、雪の降る、街の夜道だった。

そんな重く凍てつく世界で、やがて朝は訪れ、朝のひかりが街の雪景色を照すこと となってくれる。
雪たちは、その綺麗な世界と、そこで灯される美しい世界を作りだす。
そのささやかな、つつましやかな喜びが、ひとの支えとなってきたのではないか と、思う。
手のひらの内で、自然の循環輪廻を通してかたち作られた、いのちと自然の「結晶」である”ゆき(雪)”が
その美しさを湛えている。

そこで、自然の中、いのちと自然の循環を見出す、その いとなみの こころの底で感じられること の、
喜びの感情の”結晶”を生み出すこと と、なってくれたのが、”原子論”だったのかな と、思う。
いつの時代、変わらずめぐり来る、いのちと自然との絆。そのかたちとなったのが、自然科学のはじまりとなった
”原子”という基本(結晶)単位だったのかな と、思う。
その、”結晶”である”原子”を見出すこと となってくれたのは、いのちと自然の循環の結晶を生み出すこと
となってくれた、”あめ”や”ゆき”だったのではないか と、思う。

冬の夜空で輝く、雪々の光の景色。

そのつめたい雪々の世界で、
春の訪れの、ゆき解け水を頼りとなって、
植物たちは、化学反応の最終態の結晶をつける。

そのような、いのちと自然の循環の見られることで、
”自然科学”というのを見つけ出されたんだと、思う。

(終わり)
いかがでだったでしょうか。
自然科学というものが、
いのちと自然の循環という、”こころのいとなみ”
などから、生み出されたのではないか、ということが、
おわかりいただけたのではないか と、思われます。
自然科学の”こころ”などを理解することで、
自然と科学との、絆を取り戻す、
自然環境との絆の回復と、西洋の人達との絆などを、作っていけるのではないか、
そう考えています。

